“間接的な伝達” ということに限った場合、緊急性を要するケースでのEメールは非常に便利な手段であるが、重要性ということではどうだろうか?
その手軽さがかえって災いしてしまうような気がする。
たとえば、自分の好きな人へ気持ちを伝えるのにスマホからのメールでは、相手に十分その深刻度を理解してもらえたのかどうか、そこでまた新たな悩みを抱えることになりかねない。
このことは、ビジネスレターに置き換えても例外ではないだろう。
伝達内容の重要性に合わせて、その伝達手段にもランク付けがあるようだ。
低い方から順に並べると、
1.Eメール
2.葉書
3.手紙
ということになるらしい。
あらためて言わなくても、ちょっと考えてみれば誰にでもわかることだとは思うが。
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私がいわゆる青春時代を過ごしていたころは、1のEメールというものはまだ一般社会にはお目見えしていなかった。
なので、自動的に好きな女の子に気持ちを伝える方法は2か3のいずれかで選ぶしかなかったのである。
せっかくなので記憶をロープづたいによじ登っていくと、好意を寄せていた女の子と書簡のやり取りをしていた一時期に辿り着く。
少しでも賢く見せようと、辞書を片手に難しい漢字を大量に混入させながら、たとえば、「とにかく」というのを「兎に角」と書いてみたり、それでいて書いている内容はそれらの漢字に反比例する他愛もないことの羅列だった。
そのようにして書いた手紙をポストに投函する時は、今にして思えばきっとニヤけていたに違いないし、逆に女の子からの手紙が届いていないか早くポストを覗きたくて、帰宅時間が毎日待ち遠しかったはずである。
封を開けるときのあのドキドキワクワクした気持ちや、書いているときのあの妙にキリッと引き締まった新鮮な気持ちは、やはり手紙でしか味わえない醍醐味といえるだろう。
という訳で、あの書簡のやり取りをしていた一時期というのは、代替のきかない青春の一ページとして、今でも私の記憶に留められているのである。
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誰かから聞いた言葉だったか、何かの本に書いていたものだったかは忘れてしまったが、幸せというものはゆっくり時間をかけてやってきて、不幸は突然目の前に現れるものなのだそうだ。
その比喩として蛍光灯のONとOFFを挙げていた。
部屋の蛍光灯にあかりが点るときは、パチパチッと小さなあかりの前置きがあってから部屋全体を明るく照らすという過程があるが、スイッチを消す時となると、一切の逡巡なく断ち切るように真っ暗になる。
幸せは突然訪れない。
幸せとはパチパチッという小さなあかりの前置きのように、一つひとつ噛み締めながらゆっくりと積み上げていくものなのである。あるいはその過程こそが幸せのピークといえるのかもしれない。
ところが不幸は予期せぬときに突如目の前に現れる。
幸せの絶頂にいるときであろうと、KYの誰それのようにお構いなしに突きつけてくる。あたかもスイッチを消した部屋のように、目の前が一瞬にして真っ暗になるのである。
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私ははじめに挙げた伝達方法の4番目に、最も重要度の高い手段として 『手紙プラス “花”』 という項目を付け加えたい。
“花” は言葉で表し切れない気持ちを補足し代弁してくれる。いや、それに余りある効果を添えてくれるだろう。
花が美しく咲いている時間は、その価格に照らし合わせてみても長いとはいえないかもしれないが、その差額は “記憶” という時間に置き換えて、その後何年にも渡り十分なおつりをもたらしてくれる。
花と同様振り返ったときに決して長くは感じないかもしれない人生に、豊かな記憶として文字通り花を添えてくれるのである。
人生はそう長くはない。
あなたにとって、花と手紙を必要とするのはいつですか?
劇的花屋 for Gift
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